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近衞秀麿と近衞音楽研究所について

近衞音楽研究所 所長 近衞 一 記

(2018年3月)

私の祖父である近衞秀麿は1898年(明治31年)11月18日に東京麹町で生まれた。父は当時貴族院議長だった公爵・篤麿。左大臣を務めた祖父の忠房こそ25年も前に世を去っていたが、江戸時代末期に関白職にあった曽祖父、忠熙(ただひろ)はこの年の春まで存命していた。

7歳年上の文麿が父の没後、25歳で貴族議員となり政治の道を歩んで行ったのはある意味この家の長男として生まれた者の宿命だったと言えるが、それとは対照的に次男であった秀麿は自らの人生をかなり気ままに過ごしていくことができたのであった。

自己の性格を「生来の天邪鬼」と認識していた様に常に他人とは違う方向へ進みがちで、当時の華族子弟の常として学習院に通いだした少年時代などはいたずら心から運動会の徒競走にてコースを逆走するなど「卒業するまでには学校から罰を受けることおそらく前科16犯位」という程の数々の腕白ぶりを発揮して母親を困らせたものだが、そんな少しへその曲がった気性が当時まだ我が国では黎明期にあった西洋音楽へ目を向けさせたとも考えられる。

 

確かに1900年初頭にはレコード録音が開始され、秀麿がヴァイオリン奏法の手ほどきを受けた瀬戸口藤吉が作曲した「軍艦マーチ」も1903年には米コロムビア社によって吹き込まれているのだが、今でいうクラシック音楽を鑑賞する目的のレコードが一般的になるのはまだまだ先の1920年代半ば以降であったことを考えれば、幼少・少年期の秀麿がレコードを通して西洋音楽に興味を持ったとも思えない。

何せ秀麿誕生より約2年前に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)が設立されてはいたが、当時の日本で西洋音楽を演奏していたのは主に陸、海軍楽隊であり現在の形のプロ奏者によるオーケストラは作曲の師でもあった山田耕筰と共に自らが組織する1925年まで無かったのである。

やはり兄の文麿が言ったように「近衞家なんて特に江戸時代には徳川に対する外様大名の政略的な婚姻によって蝦夷から薩摩までの様々な血が混じった雑種で、大天才もいない代わりに一粒一粒が変わり種が多くて、それを考えたらありとあらゆる性格が出て来るのは不思議ではない」という特異な血統が、秀麿を当時わが国では未開拓と言ってよかった西洋音楽の道へと目を向けさせたのだろう。

 

好奇心から始めたヴァイオリンかもしれないが、学習院で高等科に進んだ頃にはかなり熱心に取り組む様になった。校内に流行ってきた軍国主義が様々な芸術活動を抑制し始め、それに対抗する文学思潮「白樺派」の活動に共鳴した秀麿は音楽分野の代表として「鉄拳をくらったり楽器を壊されるなどの妨害を受けながらも練習に打ち込んだ」と後に述懐している。

同時期にはドイツ留学から戻った山田耕筰に師事し作曲法も学び始め東京音楽学校には入り浸り、九州にドイツ帰りの医学博士がベートーヴェンの交響曲全集スコアを持ち帰ったと聞けばかの地に赴き懇願してそれを写譜させてもらうなど、音楽に対する情熱は益々高まっていく。

 

その後帝国大学文学部に進学をするも講義をほとんど受けることなく中退、25歳になった時についに欧州への留学を決意する。現地ではそれまでの飢えを一気に満たすかの如く聞けるだけ演奏会に通い、傍らパリにてヴァンサン・ダンディに作曲を、又ベルリンではマックス・シリングらに作曲を学んだほか指揮についてもエーリッヒ・クライバーに師事する。

クライバー教授との初めての面談ではどの程度の素養があるのかを計る氏に向かって、「ベートーヴェンの交響曲全曲のスコアを書き出せる」と言い放ち実際に指定された第4交響曲を書き始め、その出来を大層感心されて弟子入りが認められたという。

師からはその後当時発見されたもののやり手の無かったモーツァルト作曲とされる「4本の木管楽器とオーケストラのための協奏交響曲(現在のK.297b)」のスコアを預けられ演奏することを勧められ、BBC交響楽団(ロンドン)他世界各地で取り上げ1931年にはベルリン・フィルとレコード録音する程の得意曲としていくのだが、この一例をもってしてもクライバー師との関係は極めて良好であったと言えよう。

 

1年半程の欧州遊学中に秀麿は日本での師山田に倣い自費でベルリン・フィルを雇い指揮デビューを果たす。オーケストラにしてみればどんなアマチュアが振るのかと恐れていただろうが果たしてコンサートの出来は上々で、それからは客演として何度となく同じ指揮台に上がることとなった。

1924年9月、船三艘分という物凄い量のオーケストラスコア、パート譜(ペーター社の印刷譜は全て購入したそうである)を手土産に帰国。翌年に今や師というよりは盟友ともいうべき山田と共に日本交響楽協会を設立、これが我が国最初のプロフェッショナル・オーケストラの誕生となる訳である。

その後現在のNHK交響楽団の元となる新交響楽団を設立、第2次大戦前から戦中にかけては政府派遣の音楽使節としてフィラデルフィア、ロス・アンジェルス管弦楽団やNBC交響楽団、ミラノスカラ座管弦楽団、ドレスデン・フィル、モスクワ放送、レニングラード・フィル等世界各国90余りのオーケストラの指揮台に立った。

NBC交響楽団とはトスカニーニが就任する前の数か月間のトレーニング指揮者として契約しており自らが指揮したコンサートは短波放送で日本へ生中継された程、当時の秀麿の活動は世間の注目を集めていた。又終戦間際にはパリとワルシャワで自分のオケを隠れ蓑にして迫害される寸前のユダヤ人音楽家達を亡命させたともいう。

 

戦後の秀麿はもっぱら日本のオーケストラ育成に情熱を傾ける。海外で体験した一流オーケストラの響きを日本のホールとオーケストラで再現すべくスコアに手を入れるいわゆる“近衞版”もライフワークと言える程に増えていく。

若き日に目指した作曲家としては大正時代に作った「ちんちん千鳥」他 歌曲数曲と昭和天皇即位の時の「大礼交声曲」が目立つくらいだが、写譜によって培ったオーケストレイションの見事さは雅楽「越天楽」や「君が世」で証明されよう。

 

これまで述べてきたように秀麿は山田耕筰と共に日本の西洋音楽の礎を築いた偉大な音楽家であることは間違いないのだが、現在に至るまで研究が十分にされてきたとはいえないであろう。秀麿が三十代、四十代の最も働き盛りの時期に戦争が起こり、この間の活動はドイツを中心に欧米で行われ、作品等の所蔵物が散逸もしくは焼失してしまっているものも少なくない。事実当研究所が所蔵しているものがすべてではなく、欧州滞在時代の資料はドイツに残されていたり、いまだその所在が不明な資料もある。秀麿の作曲家として、指揮者としての活動が今日の視点から解明されることは、近衞秀麿研究にとどまらず、日本の近代音楽史を明らかにする上でとても重要だと考えられる。

 

現在当研究所が管理する近衞家に残る秀麿の膨大な資料について、その調査研究はやっと緒についたところである。今後秀麿の音楽活動についての調査研究が進み、近衞秀麿が我が国の近代音楽史においてどのような役割を担い、意義を持ったのか解明していければと期待する次第である。

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