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生誕120周年記念「近衞秀麿 再発見」パネル展示

パネル1 日本のオーケストラ黎明期の近衞秀麿

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【上段】日露交歓交響管絃大演奏会 

日本のオーケストラの歴史は、東京音楽学校、宮内省、軍楽隊などを除くと、近衞よりもひとまわり年長の山田耕筰(1886~1965)の活動によって幕を開ける。1910年からベルリンに留学した山田は、帰国後1915年の5月から12月まで、東京フィルハーモニー会管弦楽部を率いて、日本初の定期演奏会を行った。

山田と近衞は1925年3月に38名の楽員と共に日本交響楽協会を組織し、同4月にロシアから楽員を臨時に招いて、約70名で日露交歓交響管弦楽演奏会を開催した。これはそのときの歌舞伎座での演奏会の予告記事である。この演奏会は東京、名古屋、京都、大阪、神戸で開かれ、東京での4日間はすべて異なる曲目で演奏された。

 

【中段】新交響楽団での演奏風景

日露の合同演奏会のあと、同協会は発足直後の東京放送局[日本放送協会の前身]と定期放送の契約を交わし、1926年には予約演奏会を開始する。しかし同年9月に近衞は山田と別れ、10月に新交響楽団[NHK交響楽団の前身]を組織した。写真は1927年に近衞の指揮で演奏する新交響楽団。

【下段】新交響楽団 第1回定期演奏会プログラム

新交響楽団の第1回定期演奏会は当初、1927年1月16日に予定されていた。これは予約演奏会で、初回のプログラムは予約会員の募集告知と共に、1926年12月に各所に送付された。しかし1926年12月末の大正天皇崩御に伴い公演は延期となり、実際に第1回定期演奏会が行われたのは2月20日である。

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【上】近衞秀麿《大礼交声曲》初演時のプログラム

 近衞秀麿は、昭和天皇の即位の大礼(1928年11月10日)に先立って行われた「御大典奉祝音楽会」(11月3日)の5曲目として、新交響楽団とともに《大礼交声曲(大禮交聲曲)》を初演した。「交声曲」とは「カンタータ」という意味で、自筆譜のタイトルにはドイツ語で「Krönungs Kantate(戴冠式カンタータ)」と書かれている。管弦楽にソプラノ、メゾソプラノ、バリトン独唱、混声合唱を加えた大規模な声楽曲で、近衞の作品中で最も規模が大きく、重要である。初演時のバリトンは内田栄一、ソプラノ松平里子、メゾソプラノ佐藤美子であった。

 

【中右】新交響楽団 第100回定期演奏会にて再演

《大礼交声曲》は、何度か再演を繰り返した後、新交響楽団の記念すべき第100回の定期演奏会のプログラムにとり入れられた。1931年12月16日、日本青年館にて行われた再演の独唱者は内田栄一、桜井京子、沢智子であった。

 

【下左】「自由学園音楽会」にて再演時のプログラム

自由学園音楽会にて《大礼交声曲》が再演されたのは、1929年2月27、28日のこと。曲は、1. 前奏曲、2. バリトン独唱「八隅知之 吾大王(やすみしし わがおおきみ)」(歌詞は万葉集、柿本人麻呂による)、3. ソプラノ・メゾソプラノ独唱「天地乎弖良須日月能(天地を照らす日嗣の)」、4. 合唱終曲「奉祝歌」(歌詞は堀内敬三)の4曲からなり、歌詞も載せられている。

またこのプログラムには、近衞が1927年12月頃より第1曲の作曲を始め、翌年8月までに第3曲までを完成、終曲は初演の直前まで手を入れていたことが書かれている。

パネル2 近衞秀麿《大礼交声曲》

パネル3 ムソルグスキー《展覧会の絵》(ラヴェル版と近衞版)

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【上】ラヴェル版にて行ったロシア公演でのプログラム(1931年2月)

 ムソルグスキー(1839~81)の《展覧会の絵》は、もともとピアノ曲だったが、1922年ラヴェルが管弦楽に編曲すると、各地で繰り返し演奏される人気の作品となった。

近衞秀麿は、1931年1~2月モスクワ、レニングラードを訪れ、現地のオーケストラと共に何回か演奏会を行っている。その際、ラヴェル版ムソルグスキーの《展覧会の絵》のロシア初演を行ったが、当時の批評家からは「ラヴェルの編曲は、あまりにフランス的で、ロシアの土の香りがしない」と批判的な意見があったという。それがきっかけとなって後にいわゆる近衞版《展覧会の絵》が作られた。この資料は、その時の演奏会の一つで、第III部でラヴェル版《展覧会の絵》を演奏した。

 

【中】近衞秀麿編曲版 自筆譜スコア(1934年)

火事により大きな損傷がみられる近衞版《展覧会の絵》自筆譜スコアの冒頭部分である。

とくに冒頭の「プロムナード」の出だしが、ラヴェル版では高らかなトランペットのソロで始まるのに対し、近衞版では木管楽器(クラリネット、ファゴット)と弦楽器群で始まるところは大きく違う。が、全体的にはラヴェル版を踏まえつつ、弦楽器を中心に重厚な響きとなるよう工夫されている。表紙のページには自筆にて、「Bearbeitet von Hidemaro Konoye (1934) / Berlin, Tokio」とあり、ベルリンでの演奏活動の合間に書き始め、東京に戻って書き上げたことがわかる。

【下】近衞版を演奏したプログラム(1950年)

近衞音楽研究所にはその他に「1950年」の書込のある筆写パート譜も存在している。東宝交響楽団[東京交響楽団の前身]の第31回定期演奏会のプログラムでは、近衞版《展覧会の絵》がとりあげられ、ちょうどこの頃に作成されたパート譜ではないかと推測される。

パネル4 日本の音楽を海外に紹介する

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【左】日本古曲《さくら》近衞編曲の自筆譜(1943年)

有名な日本古曲《さくら》を、1943年9月ドイツ占領下のワルシャワで行われた「日本の夕べ」という演奏会のために、近衞秀麿が編曲したもの。ハープの入った2管編成の管弦楽と女声独唱という編成である。

 

【右上】ベルリン・フィル指揮者デビュー時のプログラム(1924年1月)

ヨーロッパへの留学中、秀麿は連日のように演奏会に通い、ベルリンなどで作曲や指揮について勉強した。

そして1924年1月18日、ベルリン・フィルで指揮者デビューした時に選んだ曲目の中には、近衞秀麿の4つの歌曲《ちんちん千鳥》《犬と雲》《舟唄》《大洪水の前》がとり入れられた。独唱はアルト歌手のフリーダ・ランゲンドルフで、とくに《ちんちん千鳥》と《舟唄》が好評で拍手が鳴りやまなかったという。

【右下】ロシア公演でのプログラム 近衞秀麿《大礼交声曲》《越天楽》を演奏 (1931年)

1931年1月25日、モスクワ音楽学校の大講堂にて行われた演奏会の第I部では、《大礼交声曲》とともに、秀麿が編曲した《越天楽》が演奏されている。《越天楽》はモスクワの他、ベルリン・フィル、フィラデルフィア管弦楽団、上海工部局交響楽団ほか、パリ、ウィーン、ロンドン、ニューヨーク、プラハ、ヘルシンキ、ミュンヘン、ローマ、ソフィア、ワルシャワ、クラクフなどで演奏された。とくに海外で、非常に人気のある作品であった。

パネル5 海外での活躍ぶり---著名な音楽家との交流

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 1924年1月ベルリン・フィルにて日本人初となる指揮者デビューを果たした近衞秀麿。第2次世界大戦前から戦中にかけては政府派遣の音楽使節としてミラノ・スカラ座管弦楽団、ドレスデン・フィル、モスクワ放送、レニングラード・フィル、フィラデルフィア、ロス・アンジェルス管弦楽団やNBC交響楽団等、世界各国90余りのオーケストラの指揮台に立った。

 

【上】パリの音楽事務所作成のプロモーション用ちらし

1936年の10月から12月のヨーロッパでの演奏活動を後押しするために作られたプロモーション用ちらし。左に英語、仏語、独語で秀麿のプロフィールと写真が掲載され、右には1933年にドイツ各地で行った演奏会に対する新聞評が掲載されている。

 

【中左】R. シュトラウスとの記念写真

1933年10月3日、近衞秀麿はベルリン・フィルに招かれて指揮、大きな成功をおさめた。この時のプログラムは、秀麿が管弦楽版に編曲したシューベルトの《弦楽五重奏D. 956による「大交響曲 ハ長調」》、R. シュトラウスの《ドン・ファン》他。幕間に秀麿を訪ねてきたシュトラウス(左端)、作曲家のレズニチェク、シュトラウスの息子フランツとともに写真を撮った。

【中右】R. シュトラウスからのサインと写真

その後も、R. シュトラウスとの交流は続き、サイン入りの写真が1940年に贈られている。「素晴らしい指揮者 近衞伯爵へ」「誠実なるリヒャルト・シュトラウス、ガルミッシュ 1940年11月20日」との書き込みと、左下に音楽家らしく五線譜にてメロディーの一節が書き込まれている。

【下】秀麿が収集した音楽家たちの手形

フルトヴェングラー、ストコフスキー、E. クライバー

秀麿は、共演したり、知り合ったりした音楽家たちから手形とサインを集めるのを趣味としていた。

今回パネルに載せたのはすべて著名な指揮者たちで、左から、フルトヴェングラー(1933年1月2日、ポツダム)、ストコフスキー(1936年10月27日、フィラデルフィア)、E.クライバー(1938年2月13日、プラハ)の3人である。

パネル6 近衞秀麿とベートーヴェン

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近衞秀麿にとって、ベートーヴェンは生涯に渡りもっとも大事な作曲家のひとりであった。音楽への道を志すきっかけとなったのもベートーヴェンの交響曲を聞いたことであり、その後も事あるごとにベートーヴェン作品をとり上げている。

 

【上左】「ベートーヴェンの夕」公演ちらし(1929年)

【上右】新交響楽団第149回定期演奏会

「ベートーヴェン・ツィクルス」プログラム(1935年)

パネル右の「ベートーヴェン・ツィクルス(連続公演)」では、《交響曲第6番 田園》《コリオラン序曲》《レオノーレ序曲第3番》《交響曲第7番》というラインナップだった。

 

【下左】フィラデルフィア管弦楽団客演時のプログラム

 《交響曲第2番》などを演奏 (1937年)

1937年1月、フィラデルフィア管弦楽団の「ベートーヴェン・ツィクルス」に客演することとなった近衞秀麿。それというのも、当時すでに何度も《交響曲第2番》を振っていた秀麿に白羽の矢が立ち、選ばれた。交響曲の前には《レオノーレ序曲第3番》が演奏された。

【下中】近衞秀麿著『ベートーヴェンの人間像』

秀麿がベートーヴェンについて述べた著作は数多いが、その中のひとつで代表的なもの。前書きの中で秀麿は、ベートーヴェンの単なる伝記、または作品に関する評論ではなく、ベートーヴェンの人間像に近づくため、また演奏により一層の生命を吹き込むための文献として、自分が暇さえあれば訪ね歩いたウィーンで得られた情報をまとめた…という趣旨のことを述べている。

 

【下右】秀麿の教科書に書かれた落書き

学習院高等科での『高等國文』の教科書。裏表紙には、「高一 近衞秀麿」という名前と共に、様々な作曲家の名前が欧文で落書きされている。その一番上にあるのが、「Ludwig van Beethoven (ベートーヴェン)」。その下に「ワーグナー」「モーツァルト」「ブラームス」「チャイコフスキー」と続く。

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